「FORTY PERCENT AGAINST RIGHTS」すべてはここから始まった
「変わらないことの中で変えたこと」このコロナ禍で考え行動すること、新しく誕生させたもの。そして今回は時間をぐっと戻して、徹の服作りを始めたきっかけから話しを聞いてみました。
ーこの対談も、こうやって最近の話から始まったけれど、ここからぐぐっとさかのぼるね。俺、徹のことは小学校から知っているじゃん。中学校くらいでみんなでビースティーボーイズとか聴き始めて、服だとさ、MA-1とかリーバイス501とかエアジョーダンとかみんなで渋谷とかアメ横とかにも買いに行ったりして、それでそういうことにのめり込んだけれど、徹が洋服作りをしようと思ったきっかけってなんだったの?
徹:そうだね、Tシャツ作りかな。みんなは当時プリントごっことか持っていたんじゃないかな?自分はやっていなかったけれど、年賀状も版画でやってたでしょ。みんなクリエイティブだよね。そのころ自分は夜遊びばっかりしていたし、年上の人たちとばかり遊ぶようになって。良くも悪くも学校生活は崩壊していたから、自分だけ留年だしね。笑。その少しあとから(藤原)ヒロシくんをはじめにシンちゃん(Skatething)たちが「good enough」というブランドを始めてさ、その崩壊していたときにその人たちがやっていることを横で見ることができたのはラッキーだったよね、ブランドを作るプロセスを高校生の時に知ることができたんだよね。例えばTシャツなんかはシルクスクリーンがあって、「コレなに?ここに刷るとこうなちゃうわけ?」みたいな感じで。これなら自分たちでもできるかも。って思って。
ちょうどその時期にマックのコンピューターが身近になってきたし、コピー機もあったし。マックは当時バイトしてた「STUSSY」のオフィスにも「good enough」のアトリエにもあって触らせてもらっていたんだよね。なんちゃってデザインもさ、なんかそれっぽく適当に。こんな感じがいいんじゃない?!みたいな、笑。古本屋行って古雑誌を買って、切り抜いてコラージュしたものをシルクにして刷ってみてね。当時からスケーターはクリアのデッキテープの下に好きなモデルの切り抜きを貼っていたりしてさ。そんなことが延長線上にあるんだよ。自分にとってはスケートボードのデッキテープ上のグラフィックとかステッカーのアートワークの延長だったから。そんな10代のキッズが「good enough」のアトリエでシルクスクリーンを使ったTシャツ作りのプロセスを知っちゃったんだよ。それで「オレもそれやる!」って。それが服作りを始めるきっかけなのかもね。
それでシンちゃんともうひとりの友だちで、「40%」を始めたんだよね。シンちゃんが名前を決めて。ブランド名は「FORTY PERCENT AGAINST RIGHTS」。それはニューヨークの架空のブランドということにしようって、笑。当時、NIGOくんとアンダーカバーのジョニオくん(高橋盾)が二人がやっていた「nowhere」というお店でおいてくれることになって。それが始まり。
ーなんかそのノリと勢い、そしてイメージ先行な感じ、新しいことの始まりっぽくていいね。「WTAPS」は?
徹:うん、96年くらいに「WTAPS」に改名したんだよね。詳しくは「40% uparmored (w)taps」。それまでの40%をヴィジュアル武装したものをやりますということで。 「40% visual uparmored (w)taps」。それでアパレルブランドになったんだよね。
ー徹の中でアパレル、洋服屋を意識するようになったのは「WTAPS」になってから?
徹:「40%」の後半でもアパレルを作り始めていたんだけれど、「コレ作ってみたい!」みたいな動機でしかなかったから。やることも作る物もバラバラで。フリースがあったり、バイクショーツがくっついてるショーツとか。当時、マイケルジョーダンがバスケするときにショーツの下にバイクショーツ穿いていたでしょ?あれカッコいいから合体したヤツを作ろうとか。笑。なんかやりたい放題だね。で、96年に「WTAPS」となってアパレルブランドとしてリブートしたんだよね。
ー「WTAPS」は「NEIGHBORHOOD」の所属なんだよね?
徹:そうだよ。滝沢(伸介)がいて彼が「NEIGHBORHOOD」を始める時に「徹、一緒にやろう」って誘われて立ち上がった会社で。シンちゃんとやっていた「40%」の商品を「NEIGHBORHOOD」のお店で売ってみようってなって。だからその当時は「nowhere」と2カ所で売っていたんだよね。。「NEIGHBORHOOD」というブランドは94年くらいに立ち上げていて。で、今でも。そこでやっている仕事は「WTAPS」のディレクター。自分の会社は別にある。
ー90年代の半ばくらいから俺はアメリカに住んでいたんだけれど。ちょうどそのくらいの時期にアメリカでも「裏原」って言葉を聞くようになったね。
徹:エイプ(A BATHING APE)とかHECTICとかもそうだったね。
ー:その頃ってすっごく盛り上がったじゃん。徹たちもいて。あの時のムーブメントというか盛り上がりってどんな感じだったの?なんであんなに注目されたと思う?
徹:うーん、なんだろう。謙遜ってことでもないんだけれど、気持いいものではなかったんだよね。自分がそこにいた当時。”裏原”という名前もすごく気持ちが悪かったし、そう呼ばれてカテゴライズされるのもいやだった。ただ雑誌とかテレビとかのメディアはそれをひとつのキーワードとして盛り上げていたし。わかりやすい話、裏原系?って感じになって。で、自分もそこに属している人ってなっていたんだと思う。
ーそうだよね。別に徹はそこに属したくてやっていたわけでなくて。淡々と普通にやっていたらそういう名前のところに組み込まれちゃったって感じだったんだね。
徹:そうだね、その時にやっていたことがすごいニッチだったんだと思う。当時はメディアが雑誌くらいしかなかったから。(藤原)ヒロシくん、NIGOくん、ジョニオ(高橋盾)くんたちがそれぞれ雑誌でページを持っていて。彼らの影響はものすごかったよ。当時のカウンターカルチャーではあるしね。共感する若い人たちにとても響いたと思う。その”響く人たち”というのが、想像以上にたくさんいたんだよね。そういう人たちが店の前に列を作っていて。「エイプ」とか「good enough」とかそういうお店に並び始めて、”待機列”っていうムーブメントを起こしていくことになって。
なんだこの行列は?って感じでテレビのワイドショーとかが取り上げるようになって。「この行列は何でしょう?」なんて並んでいるお客さんにインタビューしたりして。そうすると、インタビューを受けたお客さんたちは、「こういう人がやっているお店で…」って答えるんだけれど、実際にお店をやっている人たちはメディアに出てこない。当時みんなテレビとかには出なかったから。そうするとよくわからないからとりあえず、”裏原”って名前になってそれがブームっになった。当時のことをいま振り返って整理するとそういうことだったんだなって思う。
ーその頃、徹もメディアに積極的にでていなかたったし、顔も出してなかったね。そういえば前にも話してくれたけれど、「WTAPS」を休止していた時期があったでしょ?
徹:そうそう。それは「Philosophy」のお店をオープンさせる前だね。
ー「WTAPS」を休んだ理由はなにかあったの?
徹:それはね、うつ病になってしまって、仕事が手に付かなかったんだよね。
ーそうなってしまった原因はなにかあったの?
徹:いま思うと、当時の自分は自分という人を演じてしまっていたんだと思う。自分以上の人に。自身のポテンシャルを超えていたんだよね。
ーそれは当時、徹が注目されたりもてはやされたりしすぎてたってこと?
徹:わからない。昔から「オレがオレが」なタイプではないからさ。そんな意識はなかったんだけれども、自分以上の振る舞いをしていたんじゃないのかな。
ー本人でも意識していないうちに周りからのプレッシャーで負荷がかかっていたんだね。
徹:そうかもね、当時一緒に働いてくれていた友達、高校の時の後輩だったから。だから長男的な立場でさ、彼らより格好良く首尾良くやっていたいみたいな。そう思うところがいっぱいあったんだよね。自分をそれ以上に見せるということが、結局ストレスになっていった。結局は自分のせいなんだよね。アイデンティティ・クライシス的な。自分は何者なんだ?みたいな。たしか22歳くらいの時かな。
ーその休んでいる間は何していたの?
徹;その間はね、友人がやっていた「Gasket」という車やバイクの工場に働きに行っていたんだよね。働くっていっても雇用されていたわけじゃないんだけれど。自分のバイクを入れさせてもらって、その工場の一角で自分のバイクをいじらせてもらっていたよ。昼時になるとみんなの弁当を買ってきたり。手元みたいなことを一年くらいやっていたんだよね。それは自分にとってのリハビリだったんだよね。そのガレージに集まってくる人たちって、本当にいろいろな人がいてさ。人間ドラマみたいなのもあってさ。
ーそういうのあるんだー。
徹:あるんだよ、ほんとに。昔(ヴェスパ)PXのスクーターに乗っていたんだけれど。それを譲ってくれた人の実家が葬儀屋だった。葬儀屋でモッズ。どちらかというとハイブリッドな方向にいったモッズの人でさ。だからスクーターもサイドカバー外したり、チューンナップとかしているスタイルで。葬儀屋だから亡くなった人と毎日向き合っていてさ。亡くなった人を毎日目にしていても底抜けに明るくって、来るたびに面白い話しをたくさんしてくれて。なんかこの人ってすごいな、って思ったり。
その他にも板金工場の人やパテ工場の人とかいろいろな人たちがその工場に集まってくる。パテ工場の人はCMの仕事ででかいFRPの人形を作っているから見に来なよ。って言ってくれたり。自分が誰とかそういうこと関係なく接してくれる。っていうのがとても良かったんだよね。それが自分のリハビリになったんだと思う。
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当時の原宿での盛り上がりは、その当時僕が住んでいたロサンゼルスにも届くくらいだった。離れていたということもあるけれど、徹のことは雑誌など当時のメディアに取り上げられていた記事を通して知ることがほとんどだったし、掲載された写真でも顔を隠していた。もちろんそのまっただ中にいる当時の徹の心情まで知ることもなかった。当時のことをしっかりと消化できて次に進めたからこそ、さらりと話してくれたんだと思う。
このあと徹は原宿にセルフビルドした自身のアトリエを構え、「Philosophy」という新しいコンセプトのお店をオープンさせる。僕たちにとってもその店は、それまであまり徹とも会う機会が少なくなっていた僕らを自然と集める場所になってく。この新しい変化はまわりの僕たちをもまた巻き込むきっかけになっていく。中学生のころから中心的存在だった徹。彼の行動はまわりの僕たちの意識にも影響を与えてきた。「今考えてみれば」と独り言を言いながら、そう思えてならない。
西山徹
1974年 東京出身。1993年、自分たちが着たい物をと「FORTY PERCENT AGAINST RIGHTS」を立ち上げる。その後「WTAPS」に改名。2004年にオープンさせた「Philosophy Store」のちに出版した「Philosophy Zine」では自身のバックグラウンドにも関わる書籍の販売や考えを言語化した冊子を出版し、多方面へと活動の幅を広げる。現在は「FPAR」を再開させ「WTAPS」、「DESCENDANT」のディレクターを務める。
text : Taku Takemura
photo : Taro Hirano
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