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山口幸士 Koji Yamaguchi Vol.1

artist / painter

Photo: Taro Hirano



僕が山口幸士の絵を初めて見たのは、この取材で写真を撮影している平野太呂が以前運営していた「NO.12 Gallery」にて開催された「SKATE SPOT」の展示のときだった。スケートボードをする彼は、東京近辺にあるスケートスポットの風景を繊細なディテールで描いていてそれが印象的だった。


その時は「Original Style(オリジナル スタイル)」というアーティスト名で活動していて、なんだかそのド直球な名前も面白いと思っている。なので僕は今でも彼のことをオリスタと略して呼んでいる。話をすると彼の生真面目な性格が伝わってくる。頻繁に会うことはないけれど、それから彼の活動はずっと気になっている。オリスタは不器用な人間だと僕は勝手に思っていて、でもそこがとても好きなところだ。

あれはたしかオリスタに急に呼び出されたんだっけな、「今のバイトでお金が貯まったらサンフランシスコへいこうと思っています。観光で滞在できる3ヶ月間めいっぱい滞在して、スケートボードのメッカ、サンフランシスコにあるスケートスポットの風景画を描きたいんです」。そう話してくれたオリスタはサンフランシスコへと旅立っていった。


帰国して、またバイトしてお金貯めてまたサンフランシスコへ。そんなことを続けているもんだからやっぱり気になるじゃん。当時の日本では若いアーティストたちがアパレルブランドや企業といわゆるコラボ、展示を盛んにしている時代だったけれど、オリスタは淡々と我が道を進んでいるように見えて、僕はそれがすごくいいなと思っていた。

それからしばらくすると、「僕、ニューヨークに引っ越します」と渡米。そのあとしばらくして、僕が仕事でニューヨークを訪れた時に、オリスタどうしてるんだ?と彼に連絡してイーストヴィレッジの焼き鳥屋で一緒にご飯食べた。翌日はスポットの絵を描きに行く、というのでその現場を見に行かせてもらった。とても寒いマンハッタンの街角に座って絵を描く姿はなんだか出会った頃の印象と変わらなくて、マジメで不器用でもちろんそれがすごく良くて。


スケートスポットのシリーズからグラフィティを消した跡の壁、そして今はまるで自分の目が霞んだのかな?と思わせるまるでピントがぼけたような風景画を描いている。さまざまな作風を通して彼の作品は抽象的にも見えるけれど、僕にはそれがとてもリアルに感じられる。なんでだろう?と考えれば考えるほど彼の作品に引き込まれていく。そういえばニューヨークで焼き鳥を食べたとき、お腹が痛くなりました。といって帰ってしまったし、絵のことについてあまり話せなかったので改めて聞いてみることにした。本編は3回にわけて掲載します。



ーオリスタは川崎出身だったよね?


山口幸士(以下、Y ):川崎の幸区、中部と南部の間くらいにある場所なんです。


ー絵はいつから描いているの?


Y:父方のおじいちゃんが画家で川崎の多摩区に住んでいて、一軒家の二階をアトリエとして使っていたんですよね。僕の家からも近くて、当時親父と一緒によく遊びに行ってました。家に入るといつも油絵の具の匂いがしていて、それが印象に残っています。


ーそうだったんだ、お父さんは絵は描いていなかったの?


Y:親父も絵がうまいんですけれど、おじいちゃんに止めらたらしいんですよね。だから画家の道は選ばなかったみたいです。


ーオリスタはお父さんとおじいちゃんの血を引いているんだね。


Y:そうかもしれません。僕も幼稚園の頃から絵を描くのが好きでした。その時から描写の細かい絵を良く描いていました。幼稚園で将来の夢を絵に描いたんです。パトカーに乗っている警察官を描いていたんですが、絵の1/3くらいが地面で、地中にアリの巣とアリがたくさんいる絵を描いていたり。余計なところばかり力入れて描いていました。


ー小さいときは警察官になりたかったんだ。絵を習ったことは?

Y:独学です。あと幼稚園から高校2年生くらいまでサッカーをやっていました。あまりうまくなかったんですが。スケボーは小6くらいからやるようになって、サッカーと両方をやっていました。



ースケートを始めたきっかけは?


Y:中学校の先輩が近所の駐車場でスケボーしていたんです。それを見て悪そうでかっこいいなって思って。憧れて始めました。


ースケートのビデオでいうと、どの時代?


Y:ビデオだと、僕が初めて買ったのが World Industries の「20 Shot Sequence」だったので95年くらいだったと思います。


ーRealの「Nonfiction」とかGirlの「Gold Fish」とかもその時代だったかな?初めて買ったデッキは?


Y:ホームセンターで売っている、いわゆるトイボードっていうおもちゃでした。それで練習していて、そのあとにムラサキスポーツで「Chocolate」のデッキを買いました。地元ではずっとひとりで滑っていたんですよね。中学生になってからスケボーの友達と一緒に滑るようになって。ジャンプランプとかも作りました。

中学生ではあまり絵は描いていませんでした。そのころから雑誌「Fine」でジェシーさんが書いていた、グラフィティの記事を読んだりしていて、カズロックさんのグラフィティもその頃に知ったんです。それからグラフィティを見よう見まねでノートに描いたりしていました。


ー高校を卒業してからは?


Y:美大に行こうと思ったんですけれど。でもやっぱり絵は習いたくないなって思ったんです。それで美大には行かずに大学では経営系、マーケティングの学科を専攻しました。古着が好きだったので、古着屋さんもやってみたいなって思って。それならマーケティングがいいのかなって思って。


ーなんかしっかりと先のことを考えていたんだね。


Y:ざっくりだったんですが。入学したのは良かったんですが、古着屋を始める方法とか具体的なことはぜんぜんわからなくて。つまらなくなっちゃって。大学でもスケボーばかりやっていました。大学2年くらいから就職のことをチラチラ意識するようになったんですが、でもやっぱり就職はしたくなくて。

絵で食べていけたらなって思い始めたんです。その頃は廃材を拾ってきてそれに顔を描いたりしていました。大学を卒業して、貸し画廊とかあと太呂さんがやっていた「NO.12 Gallery」 で個展をしました。2008年くらいだったので12年前ですね。25-26歳くらいの時でした。あのころはバイトを掛け持ちしながら絵を描いていました。夜中に工場でバイトして昼間に絵を描く生活でした。


ー当時は「オリジナルスタイル(Original Style)」って名前で活動していたよね。今は本名、山口幸士でやっているでしょ?


Y:今は、本名です。2012年にサンフランシスコにあるスケートショップ「FTC」に売り込みに行ったとき、名前を聞かれて、オリジナルスタイルって答えたら、はっ?!っていわれて。笑。説明もうまくできなかったんでもう本名でいいや、って思ってそれから本名でやっています。


ー太呂のギャラリーでやっているときかな?スケートスポットのシリーズを描いているとき、バイトして、お金が貯まったらサンフランシスコに行ってきます。って何度も行っていたよね?お金がなくなったらまた戻ってきてバイトして。あの時、羽田空港でバイトしていたよね?


Y:やっていました。夜の空港で荷物のチェックをしていました。夜9時から朝の6時くらいまで。危険物がないか見たり。そのバイトでお金を貯めて、このくらいあったらギリギリいけるかなって金額が貯まるとサンフランシスコに行ってました。


ーあの頃はずっとスケートスポットのシリーズを描いていたの?


Y:そうですね、10年くらいスポットを描いていました。おじいちゃんが風景画家だったんです。ずっとスケボーをしていたので街中を歩いていてもスケートスポットばかり見ていました。



ーそうだよね、ここオーリーで飛べそうだな。とか考えちゃうよね。


Y:段差とかバンクとか、そういう景色を見ていて、スケートスポットの風景画を描こうかなって思ったんです。風景画を考えた時、自分の背景にあるものを取り入れると、僕の風景画はそういうものだなと。まずは東京のスポットを20枚くらい描きました。そしたら今度は海外に行って描いてみたいと思って。それでサンフランシスコへ行ってみたんです。


ーサンフランシスコはスケーターにとって憧れの街だしね。スケートビデオでもよく見るスケートスポットもたくさんあるし。


Y:ニューヨークも大学の時に一度行っていて、考えたんですけれどなんだか怖い街のイメージがあって。サンフランシスコの方が向いているかな?って思って。トミー・ゲレロとかもいるし。



プロフィール

山口幸士

神奈川県川崎市出身

街を遊び場とするスケートボードの柔軟な視点に強く影響を受け、

日常の風景や身近にあるオブジェクトをモチーフに

ペインティング、ドローイング、コラージュなど

さまざまな手法を用いて独特な視点に転換する。

2015年から3年間、ニューヨークでの活動を経て現在は東京を中心に活動している。 kojiyamaguchi.com

Instagram: kojiyamaguchi_orista



第二話につづく

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